陸上競技の現役引退から結婚・出産を経て、再び第一線に復帰し、“ママアスリート”として活躍中の寺田明日香選手。
遺伝子解析サービスを手がける株式会社ジーンクエストの代表であり、ユーグレナ執行役員の高橋祥子と語り合うなか、話題は出産後の身体の変化や、日本における子育ての環境などへ。

アスリートや経営者だけではなく、多くの女性が勇気づけられるメッセージをいただきました。

前編はこちら

出産を経て大きく変化した身体と意識を受け入れる

高橋祥子(以下高橋):寺田さんは“ママアスリート”でもあるんですよね。忙しい毎日を送っていらっしゃると思うのですが、トレーニングにはどのくらい時間を割いているんですか?

寺田明日香さん(以下寺田):週に3-4日くらいですね。家事や子育て、仕事もあるので。

高橋:毎日ハードなトレーニングをされているのかなと思っていました。

寺田:確かに10代の頃は、週6日練習が普通で、休みは1日しかなかったですけどね。

高橋:練習の日数が減ってなお日本新記録達成とはすごいです。ではトレーニングのペースが大きく変わったのは、出産をされてからなんですね。

寺田:はい、そうですね。ただ逆に時間が限られるぶん、10代の頃に比べるとメリハリをもってトレーニングできています。日数は減りましたが週3日は午前はジムでのトレーニング、午後はトラック練習の二部練習をしているので、実質の練習量はそう変わりません。

今も子育て真っ最中ですが、子どもが生まれてから「一人でトレーニングできる時間って最高!」と思えるようになったところもあって(笑)。

寺田

寺田 明日香 Asuka Terada (陸上選手)
高校1年から本格的にハードルを始める。2008年、社会人1年目に初めて出場した日本陸上競技選手権女子100mハードルで優勝すると、以降3連覇を果たす。2009年には世界陸上ベルリン大会に出場、アジア選手権では銀メダルを獲得。2010年にはアジア大会で5位に入賞するも相次ぐケガで2013年に現役を引退。結婚・出産を経て、女性アスリートの先駆者となるべくママアスリートとして、2016年夏に7人制ラグビーに競技転向する形で現役復帰。2018年12月にラグビー選手としての引退と陸上競技への復帰を表明。2019年8月には19年ぶりに日本記録と並ぶ13秒00をマーク。9月に12秒97(+1.2m)の日本新記録を達成。10月にカタール・ドーハで開催された世界陸上に10年ぶりに出場した。再び陸上競技選手として、2020年東京オリンピックを目指す。

高橋:なるほど(笑)、一度失ってから初めて気がつく楽しさはありますよね。

寺田:走るのもトレーニングをするのも、あくまでも自分のため。なので、うまくいかないことがあっても、自分ができるように努力すれば解決できます。でも、子育ては子どもが相手なので、自分ではどうしようもないことが多いですからね。

高橋:自分ではどうしようもないことを経験したおかげで、自分でできる努力に集中できるようになったということですね。精神面だけでなく身体面も、きっと大きく変化されていますよね。

寺田:はい、出産前と比べるとすごく変わりました。骨盤が開いている時期や、下半身の感覚が鈍い時期もあって。
出産前の身体と同じ感覚でトレーニングをしても戻れないし、目標の向こう側にも行けない。だから、そこは一旦あきらめて変化を受け入れ、しばらくは身体を作り直すことに専念しました。今は前よりもいい身体になれたかな、と思っているんですけどね。

高橋:なるほど、変化した身体を元に戻すのではなくて、自分の身体の変化を受け入れるということをされたんですね。それを認めたうえでゼロから身体づくりをし直すことって、すごい体験ですよね。ただでさえ自分の変化を受け入れるってとても難しい人が多いし、誰もがすんなりできるわけではないと思うんです。なぜ寺田選手はそのような思考ができたのか、とても興味があります。

高橋

高橋 祥子 Shoko Takahashi (株式会社ユーグレナ執行役員バイオインフォマテクス事業担当/株式会社ジーンクエスト代表取締役)
京都大学農学部卒業。2013年6月、東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程在籍中に株式会社ジーンクエストを起業。2015年3月に博士課程修了、博士号を取得。個人向けに疾患リスクや体質などに関する遺伝子情報を伝えるゲノム解析サービスを行う。2018年4月株式会社ユーグレナ 執行役員バイオインフォマテクス事業担当 就任。

寺田:きっと10代の頃の私だったら、認められなかったと思います。

ただそもそも、女性は男性に比べると身体の変化が起きやすいじゃないですか。出産がまさにそうですよね。人間の身体は変化して当たり前。そう捉えるようになったんです。
だったら、その当たり前の変化「以外」の要素で、なぜ足が遅くなるのか、どうすればもう一度、アスリートとして戦える身体をつくれるのか、そう考えるようになりました。

高橋:なるほど、変化することは前提としてゼロベースで考えて、自分ができることに焦点を当てられたんですね。 お話を聞いていると寺田さんは、何だかすごく起業家のようなマインドをお持ちだと思いました。ママアスリートとして新しい道を切り拓いていらっしゃることもそうですが、ものごとの捉え方、課題解決の仕方や探究心の持ち方が、とても起業家的というか。

寺田:そう言われると、確かにそうかもしれません。とにかく、些細なことでも「なぜ?」を追求しちゃうタイプではありますね。

例えば、「女性の経営者が、出産後に社長室にベビーベッドを置くのってダメですか?」「それはなぜダメなんですか?」と、どんどん突っ込んでいっちゃう(笑)。

高橋:わかります。常識になっていることに疑問を持ち、解決の方法を探求していく感覚ですよね。

寺田:実際にトライしてみて、ダメだったら「ああ、これはダメなんだな」とわかる。でも何も考えず、何となく流れで「ダメ」と決めつけることはあまり好きじゃないんです。
チャレンジしてみてうまくいくことがあれば、それは他のみんなも実現できることになるじゃないですか。ダメだったら、もとに戻せばいいだけ。本当に、ただそれだけだと思うんですよね。

日本にママアスリートはなぜ少ないのか

高橋:まさに今、寺田選手がチャレンジしていることの一つが、「ママアスリート」としての活動ですよね。競技の種類に関わらず、出産後もスポーツ界で活躍している女性はほとんどいないのが現状の中で。

寺田:はい。これは10代の頃から、個人的にもずっと気になっていたことでした。海外では、けっこういるんですよ、ママアスリート。

高橋:なぜ日本では、ママアスリートが少ないんでしょう?

寺田:海外には、ママアスリートに対するサポート制度や、出産後の身体をケアするノウハウなどがあるんです。残念ながら日本にはまだ、そうした体制やノウハウが少ない。それが要因の一つになっていると思います。

高橋:ママアスリート支援のエコシステムができているんですね。海外では、ママアスリートをサポートするために例えばどんな制度があるのでしょうか。

寺田:一番大きいのは、シッター制度なんです。遠征のときなど、シッターに住み込みで子どもを見てもらったり、逆に子どもと一緒に遠征についてきてもらったりする海外選手も多いんですよね。シッターは家族の一員になって、家事や子育てに協力してくれる心強い存在なんです。

一方、日本のシッターは費用が高かったり、時間が限定的だったり、外国人のシッターさんをつけにくかったりするので、結局、依頼する側の親が時間などを調整しなければいけなくて。そのストレスは、現状のところ海外選手のほうが少ないのでは、と思います。

また、保育園に預けようとしても、日本の制度だとスポーツ選手は個人事業主と同じ扱いになるので、簡単に預けられない場合もあります。私も実際、子どもを認可保育園に預けることをあきらめました。

高橋:そういうハードルがあるんですね。やはりこれから先、そうした制度や環境が整っていかないと、ママアスリートが活躍するためのハードルはなくならないですね。

寺田:もちろん、父親をはじめ家族の協力も必要です。母親だけが子育ての負担を持つのはフェアじゃないと思うので。

人間の脳は、「集団で育てられること」を前提としている

高橋:日本だと、最近は家族の単位が小さくなってきているにも関わらず、シングルマザーやシングルファザーでも子育ては親だけで頑張らないといけないという風潮が根強いですよね。ですが、そもそも子育てを少人数だけで向き合おうとすることは、人間の脳のつくりに合っていないんです。

寺田:え? そうなんですか?

高橋:人間は脳が非常に発達している生物なのですが、脳が完全に発達するまで生まれたあとに約15年もかかるんです。実は、そんな危うい生物は他にあまりいないんですよ。人間の赤ちゃんは、誰かが常に見ていないとすぐに死んでしまうリスクがありますからね。

例えば、馬は産み落とされてすぐに自分の足で立とうとして、実際に立ち上がりますよね。馬だけではなく、生まれた瞬間から自分で生きる術を持つ生物がほとんどで。

寺田:言われてみればそうですよね…!

高橋:それなのに人間は、自力で生きていけるようになるまでに約15年もの時間を要します。これは、人間が、集団生活によって子どもを安全に育てることで生き延びてきたからなんです。だから脳の発達に長い時間をかけても問題がなく、脳が発達できる環境があった。

その背景を考えるとそもそも私たちは、両親だけでなく、集団生活で育てられることを前提として進化してきているんです。だから、子育ては家族に閉じずに周りに助けを求めた方がいい。コミュニティで子育てできる仕組みを作らなければいけないのかな、と感じています。

寺田:なるほど! 面白いですね。そうした科学的な根拠のある前提を知っていれば、「こんな小さいうちに保育園に預けていいのかな……」などの妙な罪悪感を持たなくて済むかもしれませんね。 親や限られた家族だけで完結させようとせず、みんなで子育てしていけたら両親の負担も減るし、結果、子どもにもいい影響を与えることになる。そうできる環境が整えば自ずと、子育てを主に担っている大勢の女性も、ママアスリートも、もっといろいろな活動ができるようになりますね。

無意識の「メンタルブロック」を外してほしい

高橋:競技のこと、身体づくりのこと、そしてママアスリートのことなど。いろいろとお話を聞いてきましたが、最後に改めて、寺田選手の今後の目標を教えていただけますか。

寺田:陸上競技をはじめた頃から変わらない夢が、「オリンピックでファイナリストになる」こと。アスリートとしては、ぜひそこを目指してがんばっていきたいと思っています。

その先に向けてはまだふんわりしていますが、後輩となるたくさんの女性アスリートたちに向けて、何か残せたらいいな、と。スポーツスクールの開催や講演会の実施など、試行錯誤しながら新しいことにも取り組んでいるので、ママアスリートが後に続けるような道を作っていきたいですね。

高橋:いいですね、先駆者として是非実現していただきたいです。新しい道を切り拓こうとしている中、現時点で「特にここを解消したい」と感じていらっしゃる部分はありますか。

寺田:難しい質問ですが…。一つ挙げるとするなら、選手それぞれのメンタルブロックをどう外していくか、でしょうか。

「出産後もアスリートを続ける? 普通は無理でしょ」と、いつの間にか思い込んでしまう。そうした無意識の“ブロック”を、どうにか変えていきたいと思っています。
アスリートが他の競技に取り組むことも「普通は無理」と思われていることの一つなんですよね。どうしても、同じ競技一筋でずっと継続することが美学とされがちなので。

高橋:確かに、そうした側面は強そうですね。アスリートや性別に限らずそうした“常識”にとらわれてしまっている人は多いです。

寺田:でも私の場合、陸上競技から離れている間に挑戦したラグビーの経験がとても有意義だったんです。足腰が強くなり、以前より地面を捉える力が強くなったし、ハードルへ向かう怖さもなくなりました。

高橋:そして実際に成果を出されているわけですから、説得力がありますよね。 「寺田選手が実現できたのだから、自分にもできるかもしれない」と勇気づけられるアスリートの方も多いんじゃないかな。

「メンタルブロックを外す」意識をもつことは、アスリートだけでなく、日々忙しく働く多くの方々にも参考になるかもしれませんね。

寺田:そうですね! 競技に取り組む私を見て、多くの方に「自分にもできるかも!」と感じてもらえたらうれしいです。

高橋、寺田

※文章中敬称略

構成:水本このむ/撮影:坂脇卓也/編集:大島悠